kaunisupuu mekiss

小さなお話や長いお話、詩のようなお話、時々他にも何か。

その日父は。4

 姪の駒子は紆余曲折あったが事務所を経営している。うちの長女と同じ歳だが、えらい差だ。うちのは、あれは大きな歳になって急に家出だ。

どこでどう間違えたのか。ってうか、そもそも家出って、若い子がするもんだろう。旦那をうちに置いてって言うのも変だろう。婿をどうすんだよ。あぁ、うちのことを考えていくと、だんだん頭痛くなる。それに比べたら駒子のうちは、とりあえず片付けたらキレイになる(たとえ翌日元通りになったとしても)し、事務所に来る人たちもみないい人達だし、駒子の息子もサッカー少年らしく楽しいし。長女のむすこはこれまた、何考えているかさっぱりわからないや。小さいときいっしょにザリガニとりにいったり伊豆までヤドカリ取りに行ったりあいつはよろこんでいたなぁ。どうせあいつは自分の息子に仕送りなんざぁやっちゃいないだろう、おりゃあ孫のためにも駒子んとこで使ってもらわないといかん。あと2年であいつも卒業だからな、それまでは、頑張らなきゃならん。

「ゴミはこれだけか?事務所のほうにはあるのか?ない?わかった。ちょっくらごみをすててくらぁ。」

ゴミを出しに行くといつものご婦人方がいる。挨拶をして顔を上げると俺より少し年上の白髪頭のおばあちゃんが足を引き摺ってゴミを持ってくる。あれはまさに、えっちらおっちらって言うやつ。俺は駆け寄ってゴミを受け取る。

どうせ出すんだから幾つ出すのもいっしょだ。

優しいとか言われるが、困ってる人がいたら手を差し伸ばす、当たり前だろう。

「いつもすまないねぇ。助かるよ。」

俺はうなづく。みんながみんな少しずつ周りの人を気遣えば世の中案外うまく回るはずだと俺は思っている。

1月まだ夜明け前の。

救急車や消防車が
ひしめき合っていたんだ
消防団の青年が
格納庫から出したホースを
水が通っていくのを

見たよ

確かに

お父さんとお母さんが
すすを舞いあげて
燃える家を見ていたのを
それなのに
気がついたら
お父さんがいなくなっていたんだ

一月の終わり
ガラスは確かにしまっていた
ひんやりとした空気が
硝子の粒子の隙間から入ってきて
私は布団に潜って 
夏の夢を見ていた
ざわめく野次馬と
お父さんの名前を呼ぶだれかの声と
次々と集まってくるサイレンに
目が覚めた 窓の外では
赤色灯がくるくる回っていて

寝室は 玄関を入って左
鏡台は入ってすぐのタンスの脇
上の引き出し
あった 
いつも身につけていたらいいのに
いや まてよ  
お母さんはいつも 身につけていたな 
ご飯を食べながら新聞を読まないでって
言って わたしが黙っていたら
怒り出して あいつが怒りだすと
手のつけようがないから
放っておいたんだった それで
ネックレスをはずしたのか?
お母さんなんて呼ぶようになったけど
あいつは わたしのお母さんじゃない
あいつはわたしの恋人だった人
子供を産んで育てて 毎日お弁当を作って

とにかく外へでないと
あ でもあとひとつ 
あいつの陶器の人形も 
あれはたしか台所の・・

火の子は
食べられるものを探して
家の中を這いまわり
飛びまわり
食べられるものには
見境なく 食らいついていた
妻の笑顔を見たくてこだわった台所で
アルバムがしまってある子供部屋で
火の子から 炎に育っていく
私のパジャマの裾に
火の子がかみついてる 振り解けない
喉を通って 
火の子が食べ散らかした後の汚物が
家具からふつふつと染み出し
私の喉を通って器官を満たしていく

私の脚に喰らい付くな

お父さん 寝室の鏡台に
お父さんから初めていただいた
ネックレスを 忘れてしまったわ

あの人は何にもいわず
立ち上がって 家に戻って行ったの
私は祈るような気持ちで
あの人の後ろ姿をみていたわ
すぐ戻ってくるはずだったの
だって寝室は 台所から一番遠くて
道路に近い場所だから

いつもむすっとしていて
あの人が好きなものを作っても
にこりともしなかったの
いつからかしら
覚えていないわ
あの人 なぜ 戻ってくれないの
お父さん どこにいるの?
あの人 こんな寒いとこに私を遺して
お父さん ネックレスなんて
いらないのよ 
お父さんの手をつなぎたいの
あの人の手のひらに包まれていたいのに
お父さん?じゃない 
あの人はわたしの恋人だった人
なのに 名前が思い出せない
今 いてほしいあの人の名前が 

建物が崩れる音がした
野次馬を整理する声がした
白いパジャマを着た老婦人が
支えられながらすぐ下の道を歩いていく
空まで燃えているようだった
オレンジ色と赤い色が
濃紺の空を漆黒の闇に変えていた
吹いてくる風は焦げた匂いがした
黄色いテープが張られ
住みになった柱を残して
真っ黒い塊が跡に残っていた

新聞記事は 
何平米焼けたとか飛び火しそうになり
バケツで汲んだ水を家にかけていた人や
真ん前の家の人の話を載せていた

炭になった柱から
微かに 白い煙があがるのを
確かに 見たんだ ほんの一瞬だったけれど

その日父は。3

トイレから出るとお母さんに午後は用事があるから早く帰ってきてほしいと言われた。だいたい何時ごろ帰るのかと、尋ねてくる。むしろ何時に帰って欲しいのかと尋ねると14時には出かけるからという。今日は予防接種に行くのだと言う。何がそんなに楽しみなのか、俺は注射は嫌いだが、コロナに罹るよりはマシなのだろう。

 今から2年ほど前に中国武漢で発生したコロナウィルスにより世界はいっぺんしていた。おらの生活は変わらなかったけれど、消毒にとにかく気を配る日々が始まった。その間にも高齢者はバタバタ罹患し亡くなっていった。お茶の間の人気者だった俳優が亡くなり葬儀に至るまでの一連のテレビ報道から、予防接種が他人事ではなくなったのが事実だ。罹患したら完全隔離され、家族にも会えず、これと言った薬もないまま、1人死んでいくと、連日報道されていた。お母さんは、予防接種を打つスケジュールを立てた。一回ならずも二回目までも弱毒化したウイルスを体に植える。テレビなどでその予防接種を打っても、感染するとか、予防接種を打ったら死んでしまったとか、いろいろ取り沙汰されている。多少、不安になる。長く生きてきて目に見えない生き物の脅威を初めて覚える。手洗い、うがい。手洗い、うがいと毎日気にする。それからN29マスク。防塵マスクは毎日手洗いし消毒した。それでも足りないと三島にいる次女にも東京にいる長女にもきてくれるなと連絡をいれた。テレビや新聞では近所の人が近所の人を監視し、他県ナンバーの車に敏感に反応し攻撃するものすら現れたと報道されていた。こうした自警団について戦争中のことを思い出させられた。皆が言っていたのはウイルスとの戦争であり、良心や、正義についても問われる日々が続いていた。新型コロナウイルスは次々と進化を遂げ人智の及ばぬ域に常にあり、これまたSFのようだった。昔読んだ小松左京の本のようだと思った。

 そんな世界の話はとりあえずよい。軽トラに乗り込むとお母さんが路地の出口に立つ。うちの前の道を出る時、見通しが悪いからだ。

家政婦の仕事の順番を考えながら軽トラを運転する。ねえちゃんの家までは、住まいから5分くらいで着く。

「おーい!駒子、ゴミないか?今日は燃えるゴミの日だぞ。急げよ」

 

 

その日父は。2

読経が終わるころ、お母さんが起きてくる。よかった、今日は朗らかだ。ここのところお母さんの機嫌が良くなかった。ねえちゃん家に行くのを年を理由にそろそろやめたら⁈という。だが辞めたら孫にお小遣いも渡せなくなるし何より、1日をどう過ごしたら良いかわからないじゃないか、と思う。確かにやることはたくさんある。後回しにしていることもかなりあるが。家の中のことをしてくれと、お母さんは言う。でも、家の中のことをしても駄賃は発生しないのだぞ、むしろ出費になるだろう。心の中で反論するが、自分の生活のローテーションは変える気はない。お母さんは、新しいものや、なんだか見たことがない食べ物を食べてみたいと言う。俺は別にと思う。あんまりにも複雑な味の食べ物はそもそも複雑すぎて、何を食べているかわからないじゃないか。一緒に出かけようと言うけど、それだって出費になる。それに足が痛いからあんまり長く歩きたくないし、

良くわからないところは良くわからないからあまり行きたかない、と言ったら、むくれられた。お父さんはいつもそう、そうやって姉さん家ばかり行ってうんぬん。もう、おこりだしたらしばらくはあのままだ。帰りにチョコレート買ってこよう。

「お母さん、おはよう」

「おはよう、お父さん。ぴいちゃんに起こされたの?まあ、ぴいちゃんはごはんもらったの。よかったね。今すぐご飯作るね。」

頷いて食卓に座る。新聞を開いてテレビのスイッチを入れる。そうか、バカに静かだったのはテレビがついていなかったからか、と思う。テレビの中でいつものお天気お姉さんが今日の予報中である。お姉さんが地域を指す棒を中部地方にあてて天気をリポートすると猫がテレビに飛びつく。テレビが揺れる、面白い。しかし、液晶テレビの画面に傷でもついて買い替えとなったら俺の稼ぎがあった方が絶対良いだろう、とおもいながら、ガスレンジで格闘中の妻に視線を送る。俺にはお構いなしでお母さんは卵焼きを作っているようだ。

しばらくするとたまごやきに、良く煮詰まった豆腐の味噌汁、生野菜に、胡瓜の漬物、納豆、ご飯が出てきた。今日もたくさんだなあ、と思っていると、お母さんはパンに納豆を載せてトースターに入れて5分セットした。それから、なんでも勝手にコーヒーを淹れてくれるマシンにカップをセットした。トースターがチンとなるころ俺は食べ終わり洗面所に行く。顔を洗って、歯を磨き、トイレの時間だ。トイレには本を持って行く。そうきまっているからだ。

 

その日父は1

 その日、父は朝からいつものように従姉妹のうちに家事手伝いに行った。齢83とは思えないほど軽快な動きで、皿を洗い、掃除機をかけ、洗濯物を干す。仕分けしたゴミをゴミ捨て場まで運ぶ。風呂掃除にトイレ掃除、仏間掃除、玄関掃除。従姉妹の母が父の姉であり、昔から姉ちゃん大好きな父は、姉ちゃんが具合悪くなった時から、おさんどんを始めた。従姉妹としても共働きで事務所を経営している分、この年老いた家政婦をありがたく思い雇用し続けてくれていた。

 2月にしては気持ちの良い朝だった。もちろん布団から出る時は寒いけれど、まあ、いつもと似たような朝だった。真っ白い猫にご飯が食べたいと起こされ時計を見る。7時。起きても良い時間だ。今まで飼ってきた猫で初めて膝の上に乗り眠る猫。夢の中にも現れ猫の名前を寝言で呼び、その声に起きてしまうこともしばしばである。とにかく、にゃあにゃあ鳴いて、リビングに走っていくので、まずご飯をあげる。リビングルーム石油ファンヒーターの電源を入れる。カチカチカチカチと音がして温かい空気が吐き出される。カーテンを開いて朝日を入れる。ふと新聞受けに今日の日付の新聞を見つけ、取りに行く。ドアを開ける前に後ろを振り向くのは、随分前に後ろからついてきていた猫が開けたドアから大脱出をされ妻にどやされたからだ。幸い、猫はお食事中。気を許すことなく、ドアを閉める。新聞受けから、まだインクの匂いがする新聞をとりだす。ぶるぶるっと、立春を過ぎてもまだまだ冷たい空気に一瞬に肺が震えた。風邪ひかないようにしなくてはと、重厚なドアに手をかける。その際、不意に表札に視線を移す。随分古ぼけてしまった、と思う。そうだ、近々新しい表札に変えよう。次は木ではなくて、そうだなあ、もっと違うのも良いかもしれない。ホームセンターで見たお母さんがステキと言っていたあの、モダンな感じのやつなんかどうだろう。いやまて、へんに変わったやつにするよりまた、木に書こうかな。ちょっと変わったことをするとまた長女にからかわれるからなと思う。普通に吸い込んだ空気の、思いがけない冷たさに咳こみあわてて玄関の扉を閉める。だいぶ温まったリビングの食卓に新聞を置く。もう少ししたら起きてくるお母さんのためにお湯を沸かしておこう。ふと仏壇をみる。そうだお婆ちゃんにご飯をあげなければと思う。時代は変わったもので、水を電気ポットに入れスイッチを押し10分待つかまたないかでお湯が沸く。自分の子どもの頃から考えたら想像もできはしない。そうだ、小松左京の本の世界ならあったかもしれないが、そうでもないかもしれん。映画で見た世界かな?ま、いいか。とにかく世の中は便利になったのだ。いちいち考えることはないか。良くなったんなら良いで、良い。仏壇に、新しいご飯を供え、お茶を添える。ガラスのコップにお水を汲みそなえる。ん?グラス、また変わったかな?前のは、長女が帰ってきた時、割って新しくしたよな、これはまた違うような気がするが。ヨシとしよう。ろうそくを二本立て火を灯す。ニ本の線香に火をつける。ずっと煙が立ち上りやがてくねくねと揺れる。昔飼っていた猫に、仏壇の前に自分が座るとなぜか隣にやってきて、読経の間微動だにせず座っていた猫がいたことを思い出す。それで今朝自分を起こした猫を振り返ると、ぺろぺろと体を舐め毛繕いしている。視線に気付いたのかなめるのをやめて食卓の上からこちらをチラリと見た。

視線があったから猫の名前を呼んでみる。口をかすかに開けただけで、にゃあともいわない。気を取り直して般若心経を詠む。

犬のぬいぐるみ9

窓から通りをゆく人につぶら黒い瞳を向けて寝そべる犬は、いつ見てもかわいらしかった。学校の帰り道、商店街であるわけでもないのに、ぽつんと一軒、化粧品屋さんが現れる通学路を歩いていた。化粧品だけでなく、夏に近づくと、ミッキーマウスが描かれたプールバックが貝殻と白い砂とともに、秋には乳白色のガラス瓶に入っている小さな香水、ブドウのブローチ、というふうに、季節ごとにこまごました物も売っている店だった。おそらく本業は、化粧品を扱い、ついでに小間物を扱っていたのだろう。小学校4年生の夏休みに入る直前、私は父に頼んでミッキーマウスのプールバックを買って貰った。夏休みに伊豆の一碧湖へ祖父母と妹と旅行に行く様に姉妹で買ってもらったのだ。

一年の後、春先の飾り窓に現れたのが犬のぬいぐるみだった。売れてしまいはしないかと毎日のように外から見ていた。やっと手に入れた時の気持ちは今も心に鮮やかに蘇る。あれほど大切にしているものは他にはない。我が子が生まれ、せがまれてもあげることはなかった。犬のぬいぐるみとずっと過ごしてきたにもかかわらず、私はあの子に名前をまだつけていないことに気がついた。ただ同時に名前もつけられないことに気づく。

そんなことよりどこに置いていたかしら。まさか、急に入院となるとは、ただの検査のはずだったのに。あぁ、あの時、肺が苦しくていつもの手提げにあの子を入れる余裕がなかった。急かされて慌てて手提げは持ってきたけれど。連れて歩いて帰ってきたら確か、ライティングデスクをひらいて休ませていたと思うのだけど、じゃあ、ライティングデスクの中にいるのかしら。あとは、テーブルの上?ベッドの枕もと?どちらかにいるような。どこに行くにも一緒だったのに。あぁ失敗した。どこにいるのだろう。

「お母さん、じゃあ、急いで持ってくるから。待っていて。頑張って。まだやることたくさんあるでしょう。すぐ戻るから」

息をするのがなかなか難儀だ。待ってるよとねね子に返したいだけなのに、もはやそれすらこんなに苦しいとは。私の代わりに看護師が娘に話しているのが聞こえる。

「あの、早めに戻ってください。それから連絡しなくては行けない方の連絡先も、できたら」

 

母の忘れ物は、あの小さな犬のぬいぐるみだ。どんなにせがんでも貸してさえくれなかった。ファスナーを開けると赤いリボンがついている結婚指輪が入っている、あの犬のぬいぐるみだ。ある場所の見当もついていたし、実際にそこにあった。

ぬいぐるみをにぎり、出かけようとした矢先に見たこともない若い女がやってきたのだ。

「お話はわかりました。けれども、うちには小さな子はいません。ご近所にもあなたの言っているような歳の子はいないのではないかしら。あの、急いでいるのです。忘れたものを取りに来ただけで。もう、よろしいでしょうか?」

話しながら、かばんをさぐる。何があった時のための連絡先の書かれたアドレス帳を確認する。鍵は、どこだろう、と。ほんの一瞬の事だ。

「本当に、急いでいるのです。もう、よろしいでしょうか?」

視線を目の前の女に戻す。

先ほどまで女がいた玄関の引き戸は閉まっており、来客などまるで最初からいなかったかのようだった。立て付けの悪い引き戸が、がたがたいっている。振り返れば、廊下の先にある台所の照明が落とす白くぼんやりとした昔から変わらない灯りの影が見える。先ほどいたあの女はおそらく理解して帰ったのだろう。最近の若い子は立ち去る際、何も言わないのかしら。とにかく病院に向かわなければ。帰宅ラッシュの過ぎた幹線道路は難なく病院に向かえた。病院の駐車場もいつもより空いていた。なるべく病院の夜間出入り口に近い場所に停めた。助手席に置いたいぬのぬいぐるみを手にした時、ぬいぐるみの頭の部分が少し濡れていた。ハンカチを取り出し、ぬいぐるみを軽く拭く。自動車のどあを閉め、小走りになる。夜間出入り口の警備員に名前を名乗りナースセンターに確認してもらう。

来訪者名簿に名前を記入する。手渡された来訪者番号の仮名札をくびからかける。一枚札が多かったので返すと一緒にいる子と離れないようにね、と声をかけられた。いや、私は子どもは連れていませんと返した。

「あ!申し訳ない。次の方の娘さんだ」

あんな調子で警備できるのかしら、と思う。ポツンポツンとついているあかりの廊下を急ぎ、エレベーターホールに着く。偶然にもエレベーターが降りてきたところに、先程、警備員が次の方といった2人が追いついた。私と若い女と小さな女の子と、三人を乗せてエレベーターはゆっくりと上昇する。三人とも同じ階の利用だ。ピンと音がしてエレベーターが停まる。ドアが開く瞬間だった。女の子がつぶやいた。

「チャッピー。今までどこに行っていたの?」

女の子の母親らしき女の声がした。

「いつも一緒にいたのに、今回、初めてあなたを連れてくるの忘れちゃった。ごめんね」

開いたドアの前に母の担当の看護師が迎えにきていた。明るいエレベーターホールに降りたのは私だけだった。

 

 

 

 

「」

 

 

 

 

 

 

 

いぬのぬいぐるみ8

「お話はわかりました。けれども、うちには小さな子はいません。ご近所にもあなたの言っているような歳の子はいないのではないかしら。」そっけなくいい放たれ不安になる。けれど、たしかにはいっていった、いないなんてそんなわけはない。手のひらにはまだほんのり温もっているし、ビクビクドキドキしながら、ここまでやってきた。だが明らかにいま目の前の家人は、だんだんイライラしてきているのも事実である。

「もうよろしいでしょうか。これから出かけなければいけないのです。」

この人はまだ解決していない私を残して外出すると言う。

「忘れたものを取りに来ただけで、本当に、急いでいるのです。もう、よろしいでしょうか?」

この家には小さな女の子はいない、私は天井を見上げる。目の前の家人が嘘をついているようには見えない。一刻も早く忘れ物を持って行きたいのがわかる。家人の右手には鍵が握られており左手には少し汚れたベージュの何かが握られている。

私はそれこそあの子のぬいぐるみなのではないかと感じる。

「それは。」