kaunisupuu mekiss

小さなお話や長いお話、詩のようなお話、時々他にも何か。

犬のぬいぐるみ9

窓から通りをゆく人につぶら黒い瞳を向けて寝そべる犬は、いつ見てもかわいらしかった。学校の帰り道、商店街であるわけでもないのに、ぽつんと一軒、化粧品屋さんが現れる通学路を歩いていた。化粧品だけでなく、夏に近づくと、ミッキーマウスが描かれたプールバックが貝殻と白い砂とともに、秋には乳白色のガラス瓶に入っている小さな香水、ブドウのブローチ、というふうに、季節ごとにこまごました物も売っている店だった。おそらく本業は、化粧品を扱い、ついでに小間物を扱っていたのだろう。小学校4年生の夏休みに入る直前、私は父に頼んでミッキーマウスのプールバックを買って貰った。夏休みに伊豆の一碧湖へ祖父母と妹と旅行に行く様に姉妹で買ってもらったのだ。

一年の後、春先の飾り窓に現れたのが犬のぬいぐるみだった。売れてしまいはしないかと毎日のように外から見ていた。やっと手に入れた時の気持ちは今も心に鮮やかに蘇る。あれほど大切にしているものは他にはない。我が子が生まれ、せがまれてもあげることはなかった。犬のぬいぐるみとずっと過ごしてきたにもかかわらず、私はあの子に名前をまだつけていないことに気がついた。ただ同時に名前もつけられないことに気づく。

そんなことよりどこに置いていたかしら。まさか、急に入院となるとは、ただの検査のはずだったのに。あぁ、あの時、肺が苦しくていつもの手提げにあの子を入れる余裕がなかった。急かされて慌てて手提げは持ってきたけれど。連れて歩いて帰ってきたら確か、ライティングデスクをひらいて休ませていたと思うのだけど、じゃあ、ライティングデスクの中にいるのかしら。あとは、テーブルの上?ベッドの枕もと?どちらかにいるような。どこに行くにも一緒だったのに。あぁ失敗した。どこにいるのだろう。

「お母さん、じゃあ、急いで持ってくるから。待っていて。頑張って。まだやることたくさんあるでしょう。すぐ戻るから」

息をするのがなかなか難儀だ。待ってるよとねね子に返したいだけなのに、もはやそれすらこんなに苦しいとは。私の代わりに看護師が娘に話しているのが聞こえる。

「あの、早めに戻ってください。それから連絡しなくては行けない方の連絡先も、できたら」

 

母の忘れ物は、あの小さな犬のぬいぐるみだ。どんなにせがんでも貸してさえくれなかった。ファスナーを開けると赤いリボンがついている結婚指輪が入っている、あの犬のぬいぐるみだ。ある場所の見当もついていたし、実際にそこにあった。

ぬいぐるみをにぎり、出かけようとした矢先に見たこともない若い女がやってきたのだ。

「お話はわかりました。けれども、うちには小さな子はいません。ご近所にもあなたの言っているような歳の子はいないのではないかしら。あの、急いでいるのです。忘れたものを取りに来ただけで。もう、よろしいでしょうか?」

話しながら、かばんをさぐる。何があった時のための連絡先の書かれたアドレス帳を確認する。鍵は、どこだろう、と。ほんの一瞬の事だ。

「本当に、急いでいるのです。もう、よろしいでしょうか?」

視線を目の前の女に戻す。

先ほどまで女がいた玄関の引き戸は閉まっており、来客などまるで最初からいなかったかのようだった。立て付けの悪い引き戸が、がたがたいっている。振り返れば、廊下の先にある台所の照明が落とす白くぼんやりとした昔から変わらない灯りの影が見える。先ほどいたあの女はおそらく理解して帰ったのだろう。最近の若い子は立ち去る際、何も言わないのかしら。とにかく病院に向かわなければ。帰宅ラッシュの過ぎた幹線道路は難なく病院に向かえた。病院の駐車場もいつもより空いていた。なるべく病院の夜間出入り口に近い場所に停めた。助手席に置いたいぬのぬいぐるみを手にした時、ぬいぐるみの頭の部分が少し濡れていた。ハンカチを取り出し、ぬいぐるみを軽く拭く。自動車のどあを閉め、小走りになる。夜間出入り口の警備員に名前を名乗りナースセンターに確認してもらう。

来訪者名簿に名前を記入する。手渡された来訪者番号の仮名札をくびからかける。一枚札が多かったので返すと一緒にいる子と離れないようにね、と声をかけられた。いや、私は子どもは連れていませんと返した。

「あ!申し訳ない。次の方の娘さんだ」

あんな調子で警備できるのかしら、と思う。ポツンポツンとついているあかりの廊下を急ぎ、エレベーターホールに着く。偶然にもエレベーターが降りてきたところに、先程、警備員が次の方といった2人が追いついた。私と若い女と小さな女の子と、三人を乗せてエレベーターはゆっくりと上昇する。三人とも同じ階の利用だ。ピンと音がしてエレベーターが停まる。ドアが開く瞬間だった。女の子がつぶやいた。

「チャッピー。今までどこに行っていたの?」

女の子の母親らしき女の声がした。

「いつも一緒にいたのに、今回、初めてあなたを連れてくるの忘れちゃった。ごめんね」

開いたドアの前に母の担当の看護師が迎えにきていた。明るいエレベーターホールに降りたのは私だけだった。

 

 

 

 

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