kaunisupuu mekiss

小さなお話や長いお話、詩のようなお話、時々他にも何か。

台所シンクの上に小さな蚊の死体があった。今回は私が叩いたわけでもなく蚊取り線香を炊いていたわけでもないから一体なぜそこで死んでいたのかわからない。
 蚊は産卵のための栄養補給のために血を吸う。だいたい2mgでお腹いっぱいになるのだが、一回の吸血作業ではお腹いっぱいにならない。当たり前のようだがたいていの人が蚊を見ると追い払うしバシバシ叩き追い払う。
 ところで人体を流れる血液は体重の13分の1kg。蚊から見たらかなりの量。しかしながら私にしたら、一滴たりとも蚊にあげたくない、痒くなるし下手したらかなり悪い感染症の素をプレゼントされかねない。
 人知れず死んだ蚊を見ながら妙な気持ちになった。小さい身体を横たえてすでに絶命している彼または彼女はいつどこで生まれたのか、ステンレス製のシンクにたどり着くまでにどんな生き方をしてきたのか。私の右腕が痒いのはこやつの仕業か。左足の親指の先を刺したのはこやつか。そもそもなぜなくなったのか。害をなす虫であってもなんだか悲しい。じゃあ、血をあげたらよかったと、私の中で声が聞こえる。いや、それは無理。
「神と自然は無駄なものは作らない」とアリストテレスが言った。蚊はなんの役に立つのだろう。私はなんの役に立つのだろう。命に貴賤はないように思いつつ蛇口を捻り水を出すと、シンクの中で小さな死体がクルクル回った。小さな手足は硬直したまま水流に弄ばれている。なぜか私はその死体を一刻も早く目の前から消してしまいたいと考えている。それでますます蛇口をひねるのだが昨夜からずっと水道管の中で居眠りをしていた水は生ぬるくそれは水量にも反映していた。蚊は相変わらず水流に乗って狭いシンクの中をあちらへこちらへと漂っていた。

6月2日

ホームにいるのに雨が降っている。雨音が静かに響く中、今日も例のヒーリングミュージックが聴こえる。心なしかいつもより大きく聞こえる。その音の合間を縫うように雨の音が重なる。

 

私は、息子に何をしてあげられるだろうと思う。

 

不意に現れた思考に、

思っている自分にも驚かされる。

 

山手線がホームに滑り込んでくる。

車体にぶつかり弾けた雨粒が電車を待っている人に降り注ぐ。

 

ファーンと電車が静かな警笛をひとつならした。

6月1日

 工事中の線路の下に見える盛り土の上に、光るものを見た。女の声と男の声とそれから、どこかで聞いたことがあるようなヒーリングミュージックと、電車が滑り込んでくるガタガタという音の中に立ちながら、ぼんやりとした視界に確かに一瞬、光を見たのだ。

 私の立つすぐ後ろには緑の柵が巡らされ、足元は電車が来ても来なくても、移動する人々の体重の移動に合わせて胎動のようにかすかな振動を感じる。ふと振り返り中央線の上りホームを見ると、久しぶりの日差しを浴びて青い小さなショベルカーがすまなそうに腕をたたんでちんまりしていた。

5月31日朝

5月の終わり走りつゆの雲の中に

小さな龍を見つけた。よく見ると

その脇にもう1匹。小さな体をくねらせて

雲の合間に見え隠れする。

そのしっぽがいってしまうとすぐにもっと大きな龍をみた。あれは親なのだろうか。

つかず離れずに飛ぶ龍をみて、なるほどたくさんの雨が降るのも致し方ない。

今は多分、龍も出産の時期なのだろう。

龍は多産なのか。

 

龍の泳いだ後が残る空、一面に広がる雲を

わたしは眺めながら歩く。

かさをさすまでもないきまぐれな雨がいま

降り出した。

 

父の話を書きながら2

思うところあり父の話を書いている。

昨日、自分にもわかるように大好きな気持ちを表現してくれる人をはじめて失うというか、取られた気がした経験を妹の誕生で感じた話を書いた。また思い出した、こんなこともあった。

妹がベビーベッドで寝ている。そこに父方の親戚がやってきてかわいい赤ちゃんね,と褒める。今なら,赤ちゃんは可愛いものだとわかるが当時のわたしには,その言葉は私にはかけてもらえないわけで,とはいえ,決してそこにいる子どもが可愛くないわけではないのだが、とにかくその場にいる先に生まれた子にはそんな言葉はかけてはもらえない。まして、かわいい赤ちゃんと言われて,自慢の妹となるはずの小さい赤ちゃんをもっとみてもらおうと、親戚と一緒にベッドを覗き込みなんとなく手を差し伸べた時、

「あ、だめよ!汚い手で赤ちゃんを触らないで」と言われたのだ。今ほど衛生に気を使っていたわけではないにしろ、また、もともとうちの中にいることの多い子どもだった私の手は,外から来た親戚よりは多少きれいなのではないか? 当時の私は急いで手を引っ込めて自分の手を見たのを覚えている。私は汚い子なのかなと、台所に行き手を洗ったのを記憶している。キレイでかわいい妹をみんなは大好きで、外に行かなくても私は汚くてかわいいとは言ってもらえない私は嫌われているのだと,それ以来こんなに大きくなっても、何かにつけて思い、私を好きになる人はいないのだと思うことが多い。3歳の春から、まさに三つ子の魂百までも、だったのだ。

その日父は。をかきながら。

父のことを書きながら,自分について気づいたことがある。妹が生まれて初めて「自分を愛してくれる人」に,「かつて」という言葉がつき、同時にその人は「かつて自分を愛してくれた」と自分の中で変化したのだなと。それで妹は仇になり、父は私を捨てた人になり、私はその頃から今に至るまで、自分が愛する人にいつか捨てられると思うようになったんだなと。それで恋愛してもなんだか気がつくと疑い深くなったり、自滅していくのだな,とわかった。

 

その日父は。5

ゴミを片して駒子のうちに帰る。

家の玄関と事務所の玄関を掃き、部屋に入ると朝ごはんの済んだ食器が台所においてある。食器を洗って食器乾燥機に入れる。床に飛んだ水を拭き取り掃除機をかける。読み散らかされた雑誌を片す為に、駒子の息子の部屋にいく。脱ぎ散らかされた服を畳んで、汚れたものは洗濯機へ持っていく。ついでにこの部屋も掃除機をかける。2階の部屋の窓を開け美しく整える。夢中になって掃除をしている間は何も気にならない。掃除され整った部屋に満足する頃には10時をとおに過ぎている。おじちゃん、一息ついたら?と声かけられる。向かいの長屋の修繕を思い出し、勧められたお茶を適当にすすって立ちあがる。

長屋の鍵を借りて修繕する引き戸を確認する。古い家だ。あちこちがたがきてる。この家は東京から恋人と駆け落ちしてきて最初に住んだ家だ。あの頃は、両側に数軒ずつ立っていて朝にはそれぞれのうちから奥さんたちが出てきて洗濯物を一斉に干していた。雨が降ればぬかるんで、晴れている日には至る所に雑草が生えていて、伸び放題の葉っぱがキラキラしていたのを思い出す。おとうしゃんと、まだ小さい娘が言うのを思い出す。

「ぽぽどうじょ」

「たんぽぽ、ありがとう」

記憶の中の長女はいつも天使のようだ。ただし、記憶の中だけだ。受け取ったたんぽぽを俺はどうしただろうか、思い出せない。開ける時も閉める時もガタガタ言って動きがわるい。戸を外して上下のクルマを確認する。下のクルマが傷んでいる。駒子に行ってホームセンターで部品を買ってこよう。とりあえず戸を戻し鍵をかける。駒子に話して軽トラにのる。みんなは俺の運転がうんぬんというけれど、まだまだ運転はできる。こんなに丁寧な運転を、おっと、赤信号になっちまった。急ブレーキは危ないからそのまま交差点を渡り切る。ホームセンターに着き持ってきたいかれた部品を店員に見せ場所を尋ねる。部品はそんなに高額ではないがレシートを無くさないように財布にしまう。この財布は、次女が誕生日にくれたものだ。